テレビウォッチャー

2014年5月20日火曜日

第9回:ニールセンからの手紙

アンパイアは一人で十分
 いち早くわが国で「機械式」の視聴率調査を始めたのは、米ニールセン社である。この導入を巡っての日本テレビ・正力と電通・吉田の先陣争いについては、前号でお話しした。
  今回はA.C.ニールセン・ジャパンの「対ビデオリサーチ戦略」についてお話ししよう。
 ニールセンはビデオリサーチ社に先んじて機械式による視聴率調査を導入(1961年)したものの、電通・吉田は国産による視聴率調査測定機の開発の手を緩めることはなかった。それどころか、翌年3月には「放送広告調査株式会社設立の趣意書」を作成。会社の設立総会を開き、9月にはビデオリサーチ社を立ち上げたのであった。
 こうした中、ニールセン社とて手を拱いているわけはなかった。米ニールセン社長のA.C.ニールセン卿は、ビデオリサーチの立ち上げを阻止すべく電通・吉田に書簡を送りつけたのであった。書簡の要旨は“視聴率調査は一国一社が望ましい”、“これまでの開発費は肩代わりする”、“即刻、ビデオリサーチ社の立ち上げを中止すべし”というものであった。要するに「一つの番組に二つの視聴率があるのは混乱のもと」というのである。もちろん、ニールセン卿の言い分にも一理はあって、以前、NHKと電通の調査で生じた「差」にジャーナリズムの関心が集まったことは、述べたとおりである。

開発費用は出すから
  ニールセンの「一国一社」の指摘には、黙っていた電通・吉田も「開発費用の肩代わり」の一言を見逃すことが出来なかったのである。
 吉田は「胃がん」を病んでおり、その病状は益々悪化し、おそらく「ビデオリサーチ」の立ち上げが彼自身の最後の仕事であるとの思いが強かったかと思われる。吉田の執念というか、恐ろしいまでの気概が「ビデオリサーチ」設立に注がれていった。全役員を枕元に集めて開いた「取締役会」の模様は、ビデオリサーチ初代社長・森崎実の著「忘れ得ぬ広告人」に詳しいが、その男が「命」をかけた事業への思いにニールセン卿の一言がどう響いたか、察するに余りある。ほどなく、吉田は雪枝夫人に見守られて、窓辺の梅の花がほころびるのを待たず逝ったのであったという。

初代社長・森崎実
 彼の人となりを語るのは「逸話」が多すぎて、到底、語り仰せぬものがある。しかし、先発ニールセン社に、“追いつき、追い越せ”を旗印に、新生ビデオリサーチ社の経営を引き受け、TBS社長の諏訪博(当時)から“仲人はするから”という一本の電話を受けたそのとき、社長の座を二代目社長・波田野静治に譲ることを決めたことを思うとき、彼の執念も並々ならぬものがあったのである。その電話の内容とは、ニールセン社からの合併の申し入れだったのである。
 「火中の栗を拾うのか?」と電通当時の仲間たちからの慰めとも、同情ともつかぬ送辞に堪えて、よちよち歩きのビデオリサーチを引き受け、強敵ニールセンを組み敷いたとき、森崎は自分の役目を終えたと思ったのであろう。緊張の糸が途切れたのか、まもなく「肺がん」が見つかり、薬効甲斐なく、19813月、帰らぬ人となったのであった。(つづく)

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